「死」を知ることは、「生きる」を知ること
先日、親戚の葬儀に参列してきました。
葬儀には多くの方が参列し、皆さんに惜しまれていました。
葬儀の中で、亡くなられた方の人生を生年から学生時代、就職、結婚と順番に説明する部分があるのですが、この中で大変様々なことに貢献された方だったことを初めて知るとともに、いろいろな事を考えさせられました。
そして、いつものように自分に置き換えてみる。
僕はいずれ死ぬのでしょう。
では、死んだ後に僕はどうなるのでしょうか。
死後の世界を妄想するのはネタが尽きませんが、それはそれほど重要ではないので、死後のこの現世はどうなるのかを考えてみます。
僕がいなくなって、誰かに悲しんでもらう事ができるのかな。
それとも、僕がいなくなって、誰かが喜んだりしないだろうか。
僕に依存している人はいるのかな?
僕が依存している人はどうだろう。
僕はほとんどの人に知られない、一個人に過ぎないけれど、これで良いのか?
生前から有名で、死後も広く語り継がれる人がいます。
一時期有名でも、誰にも知られる事無く消えていく人もいます。
生前は無名でも、死後に有名になる人もいます。
ある地域または分野において、神のごとき存在でも、他方では全く知られていない人もいます。
また、他方では悪魔のように忌み嫌われる人もいます。
でも、先に述べたように僕は小さな小さな一個人に過ぎないので、有名な方々と対比する意味がわからない。
僕がいなくなっても、いなくなったことは数少ない知人のうち、さらに近い数人に知られるだけなのでしょう。
そして、あっという間に風化し、みんなの記憶から消えていくだけ。
僕は何のために生きているのか。
僕が生きている事に何の意味があるのか。
僕は生きている間に何を成すべきなのか。
果たして意味なんてあるのか。
何かを成す必要もないのかもしれない。
だから何でしょう。
目の前にあるものを追い続けるのも人生。
目の前にあるものを追わないのも人生。
目の前に無いものを追うのも人生。
だから何でしょう。
ただ、先人の生き方だけが、これからも生き方の道標になる唯一の地図なのかもしれません。
というようなことを考えた時、これまでの自分の生き方やこれからの自分の生き方を今一度見直してみるのも悪くないかなと思う次第でした。
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