妻が韓国人という事情から、僕は毎週日曜日に教会へ行っています。別にクリスチャンというわけではないのですが、一般的な日本人のクリスチャンより日曜日の礼拝への出席率は高いと自負しています。
ということで、必然と聖書の内容にも詳しくなってきました。
僕の実家は神道です。熱心な信徒ではありませんが、祝詞の文言も諳んじれる程度には知っています。しかし、この2つの宗教を比較してどちらが優れているとかこっちが本物などという評価をできるほどの知識はありません。
そこで、キリスト教について疑問に思っている1つの事を書いてみる。
「当教会では洗礼の済んでいない信徒への聖餐式への参加をお断りしています」
これは、毎月第1日曜日の礼拝後に行なわれる儀式の前に牧師が言う言葉です。
聖餐式とは、キリストが捕まる前日の「最後の晩餐」にて弟子にパンと葡萄酒を分け与えた事実を真似て、教会に集まった人でパン切れと葡萄ジュースをちょっとづつ頂くと言う儀式である。敬虔な信徒以外は参加すべきでないことなのかもしれないと思う。
しかし、その後に行なわれる「献金」では、上記のような信徒以外お断りというような事は一言も言わない。
「もらえる物はもらうが、与えるのは仲間だけ」ということである。
ある程度大きな団体なので、僕の通っている教会だけでなくその団体の総意で行なわれていることなんだろうけど、何度聞いても合点がいかない。
聖書にあるキリストの言葉のどこをとっても「区別しろ」とか「儀式に参加できるのは特定の人間だけだ」などということは書かれていない。
献金は感謝して捧げるなどと祈らせられるが、仲間に入れてくれない人達の懐に入るとわかっている現金をなぜ神様への捧げものとして提供しなくてはならないのか?献金をするかしないかは自由などと言っているが、袋のついた棒を持って人の前に突き出し、払わない人にはあからさまに不愉快な表情を向ける人が多い。
教会に行くことはほとんどなくても「洗礼を受けた人」には権利があり、毎週日曜日に教会へ行きながら献金を捧げて奉仕しても「洗礼を受けていない人」は蚊帳の外である。
聖書を読んで「誰にでも平等」がキリストの教えだと思ったけど、教会では組織的に取捨選択をしながら財貨を集める行為を何とも思わないらしい。
どこぞの、国ではクリスチャンでないと大統領になれないらしいが、「人が人を裁いてはいけない」という教えを積極的に破っている。また、「罪のない人から石を投げなさい」という言葉に対しても、元々が侵略国家で人権侵害甚だしい自国をよそに他国の文句を声高に叫んでいる。
「信じる者は救われる」という言葉は有名だが、クリスチャンと言う人達を見ていると黙示録で苦しみながら地獄に堕ちる似非信徒の多さに驚かされる。
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